因果関係と確率の修辞
時事ドットコム:タミフルの影響見られず=臨床試験2件公表−厚労省
>偽薬を投与したケースと比較し、睡眠や心電図への影響について、統計的に有意な差はなかったという。
因果関係とは、ある事象間の時系列を伴う依存関係のことを言う。時系列上で前に生起する事象を原因といい、後に生起する事象を結果と呼ぶ。原因となる事象が生起することによって、結果となる事象が生起する。そのため、原因と考えている事象の生起に関わらず同等の結果が出る場合、そこには因果関係は成立していない。因果関係が認められるには、原因となる事象の生起が結果となる事象の生起確率に影響を与えるということを立証する必要がある。
「タミフルを飲んだインフルエンザ感染者が異常行動を起こした。」
この文章は一見、ある因果関係を示しているようだが、その関係性は明示されてはいない。
考えられる原因は「タミフルを飲んだ」と「インフルエンザ感染」の二つであり、まずはそれらが"同時に起こった結果"として「異常行動」が起こっている、と解釈できる。ここではそのどちらがどのくらい影響力を持っているかは示されていない。ここに命題の曖昧さによるレトリックの問題が含まれている。
ある因果関係を確認するためには、原因となる要素をコントロールして、結果となるデータに違いがあるかどうかを統計的に検定すればよい。「タミフル」と「インフルエンザ」という二つの要因について、用意すべき実験群はその組み合わせだけ必要である。
- A:「インフルエンザ感染」+「タミフル投与」群の異常行動発生率
- B:「インフルエンザ感染」+「プラシーボ投与」群の異常行動発生率
- C:「タミフル投与」のみ群の異常行動発生率
- D:プラシーボ投与による統制群(つまり健常者)の異常行動発生率
AとB、CとDの間に有意差があった場合に、「タミフルが異常行動に一様に寄与している」と言える。AとC、BとDの間に有意差があった場合に、「インフルエンザが異常行動に一様に寄与している」と言える。(有意差とは、平均値の差が偶然でない可能性が高い、ということ。)
つまり、「タミフル」単独の影響というのは、CとDの間の有意差がなければ立証されない。そうでなければ、特に有意にB>Cであった場合、「タミフルはインフルエンザによる異常行動のリスクを上昇させる」としか言えず、予測できる結果は「異常行動リスクの上昇」だけである。
要するに、タミフルを飲まなければ異常行動が発生しないというわけではないし、異常行動の発生確率の上昇リスクを上回って症状改善の効果が高ければ、やはり治療薬としての有用性は高い。
治療薬は常に、副作用リスクと治療効果のベネフィットの比較によって有用性が主張される。
最近のサリドマイドの復権にもそのロジックがある。サリドマイドの副作用は、毛細血管の成長阻害効果による奇形児の誘発であったが、末期がん患者にとっては同じ効果でガン細胞の増殖を押さえることができる。
上記の記事では、とりあえず異常行動と関係のありそうな生理指標でC群とD群で有意差がなかった。問題が露見した当初の分析ではA群とB群に有意差はなかった。メディアで紹介される研究成果を見た限りでは、異常行動への寄与率はタミフル投与よりもインフルエンザ感染の影響のほうがはるかに高い。「タミフル投与によって発生率が"1%も"上昇した」という表現は被害者感情に沿って述べられているに過ぎず、少ないサンプル数を考えれば一回の調査における1%の差は誤差範囲内に収まる。
工学的な精密な計測に比べれば、生理学レベルでの測定誤差は大きな個体差を含んで必然的に大きくなる。つまり1%くらいの微小な平均値差が有為になる=確かだと言える確率はとても少ない。
あるニュースで「いじめと自殺には因果関係があります」という学生の投書を紹介していた。
不可避の因果関係があるのならば、いじめを受けていない人は自殺しない。しかし、いじめがなくても自殺は起こり、いじめられても必ず自殺するわけでもない。この因果関係はいじめと自殺に関係する学生のうち1/4の領域しかとらえきれていない。つまり、この因果関係が成立する確率は単純に見積もって25%しかない。
いじめを受けようが強く生きている学生やいじめとは無関係の理由で命を絶つ学生の存在を考えれば、「いじめの監視による自殺の防止」という観点での教育的な対策は功をなさない。「自殺の防止」に焦点化して、たとえばいじめを乗り越えていくストレス耐性や生き方に関わるような教育によって、自殺しか選択できないような精神の脆弱性に対処するほうがよほど効果がある。
「因果関係」という言葉は強力である。まるでそれが一対一対応であるかのように刷り込まれ、そのために時にそれは予言的に作用する。報道によっていじめ自殺が連鎖したり、「ああすればこうなる」的な占いの箴言が人の行動を決定する。「わたしはいじめを受けている。いじめを受けた人は自殺をしている。つまり、わたしは自殺をする」という三段論法は誰が見ても稚拙である。しかし、当の本人はいつしか刷り込まれた不可解なロジックのせいでこの信念が確からしく思えてしまっている。
これは強迫観念に近い。強迫行動は、不合理で非機能的な信念によってささえられている。つまり、「〜をすれば〜になる。」という形で表される主観的な因果関係に支配され、実際には起こりにくいその因果関係の成立確率を極めて高く見積もってしまう。とくにそれが回避行動の理由となっている場合、その逆の事象が起こらない限りその信念が合理的でないということが確かめにくい。たとえば、「この道を行くと、途中の家にいる犬に噛まれるだろう。」という信念が間違っていたとしても、回避行動としてその道を避け続ける限りはその逆「この道を通っても犬に噛まれない」という事実を経験することができない=信念を打ち消すことができない。
この非合理的なロジックは「成立する確率が0%ではない」というところがミソである。つまり、バタフライエフェクト(北京で蝶が羽ばたくとブラジルで嵐が起こる)によって示されるように、因果関係の成立は確率的である場合が多い。「確率的である」という言い方には、100%と0%が含まれない。「かならずそうなる」という因果関係は統計的に示せないのと同様に、「かならず起こらない」ということも示すことはできない。
確率的なロジックを解決する方法は、その曖昧さを逆手にとることである。
現象の成立がいかに確率的だとしても、現実は常に一意に定まらなければ成らない。それに対して、現象が成立する確率を「思考している主体」に引きつければ、それは「確信度」と呼ぶべきものである。そうすれば確率論の曖昧さを「曖昧さが許容される人間の思考」の属性として処理することができる。ベイズ主義で「主観確率」として解釈するのがその概念で、これは頻度主義に基づく客観確率と数学的に全く異ならない。データから得られる知見の不確かさは、頻度主義ではランダム性に基づくとするのに対して、ベイズ主義ではデータの不足に基づくと考える。
データが不足している=経験が足りないという考え方は「信念」の処理にとって重要な視点である。今ここで「〜は〜である」と考えていることは、これから経験を重ねることによって否定できるかもしれない。おおむね確率論的に考察される運命論もこのパラダイムに従う。
今日までのデータが明日を予測しようとも、それが次の結果に決定的に作用するわけではない。ましてや、「意図的に」明日の「条件」を変更しさえもできるのならば、過去のデータから導出された因果関係の「反例」を示すことはむずかしいことではない。
つまり、悩むべきは過去ではなく、これから経験するはずの未来である。
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