カタストロフィ再考
表紙が"聖☆おにいさん"だったのでおもわず買ってしまったモーニング・ツーの巻頭に"Canned Town ―缶詰の街―"(作・YOVOVA)というマンガが掲載されていた。
何やら、第2回M.I.M.C.大賞という賞の受賞作品らしい。
そこで流れていたモチーフは、「シュレーディンガーの猫」と「自己決定」。
量子力学において確率論的に記述されるブラックボックスの中の様子は、その箱を開いてみたときに初めて「ただ一つの現実」として目の前に現れる。それは、僕らの人生の中で幾度も訪れる岐路、つまり未来への可能性のなかからある一つを選択するという行為に、うまく写像される。
そのオーバーラップによって、物語が構成されている。
物語の舞台は、近未来の、宇宙開発の末に打ち捨てられ荒廃した地球で、小さな男の子と女の子がガレキの荒野から缶詰や世界で最後のものかもしれないマンガ本を探し出して遊んでいる。昔は物理学者だったその女の子のパパはすでに落ちぶれた飲んだくれで、酒を買うために賭博や借金に頼っては、どうにもならない現実に管を巻いている。
そのパパが一枚の宇宙くじを買うときに言っていた言葉。
"(くじが当たる確率は)1398万3816分の1だ
俺の研究では実際は2分の1だがな"
これと同じようなことを5年くらい前に考えていたことがある。
目の前に一枚のくじがあるとする。この一枚のくじの結果は「当たり」か「はずれ」かの2通りしかない。つまり、この「一枚のくじの結果」は「当たりかはずれかの2つのうちどちらか1つ」ということになる。
この場合、「当たり」と「はずれ」の2つの可能性についてこれ以上の情報がなければ、この2つの出現確率は同等とみなす他はない(どちらかの可能性が高いだろうと推測できる理由さえない)ため、この「一枚のくじ」が「当たり」である確率P(当たり)=(当たり)/(当たり+はずれ)は、パパの言うように"2分の1"である。
一方で、
目の前に100枚のくじがあって、この中の1枚が「当たり」で残りの99枚が「はずれ」だとする。ただ、この「100枚のくじの中の"ある一枚"の結果」も「当たりかはずれかの2つのうちどちらか1つ」である。
しかしここでは、その2つの可能性について、100枚のくじの中で「当たり」が1枚で「はずれ」が99枚という情報がある。そうすると、"100枚からひいたある一枚"が「当たり」である確率P(当たり)は、(当たり)/(当たり+はずれ)=1/(1+99)=1/100となる。これを頻度確率という。
どちらも「一枚のくじ」が当選する確率である。この2つの確率の違いは、「100枚のくじ中、当たりが1枚、はずれが99枚」という情報が事前に与えられているかによる違いである。ただし、ここで「多くの情報が与えられているほうが正確な指標に違いない」という推論をするのは正しくはない。
たとえば、3割打者が次の打席で安打を打つ確率は何割だろうか。打率とは「打率=安打÷打数」で定義される頻度確率である。「彼は3割打者である」という情報から「3割の確率で打つ」と類推できるかもしれない。しかし、これは頻度確率ではない。「何打数のうち何本が安打となった」という情報は未知である。つまり、データのない状態では「何回中に何回」という頻度は計算できず、「次の打席の打率」というものは定義できないのである。そもそも「次の打席」は一回きりであり、その打席数(分母)を繰り返し観察して打数(分子)をカウントする、という行為そのものが不可能である。ここでその未知である打席に対してなお「3割」という確率を類推するのは「主観確率」という考え方である。次の打席がそれまでの打席と同じであるかどうかの検証はさておいて「次の打席はそれまでの打席と同質のものだ」と「仮定」して、そこで起こる事象の生起確率を類推する。これはたとえば、過去の空模様のデータから類推して「明日の天気は30%の確率で雨となるでしょう」とする天気予報と同じである。もっといえば「火星の質量は6.4191×1023 kgだと予測される」というのもこの主観確率をもとにした確率計算の結果である。つまり、主観確率とは過去に起こった同様の出来事のデータの頻度から類推した数値であり「仮説」であり、未来に何が起こるかということを確定させるものではない。これは未知の出来事が生起するということについての「信念の度合い」と表現されることがある。
補:「主観」とは「客観でない」という意味で用いられるが、「客観=正確、主観=不正確」という意味で使われているわけではない。「頻度によって定義されない」というくらいの意味で、実際には主観確率と頻度確率は一致する。
バッターボックスに立った彼はこう考えるだろう。「打てるか打てないか、2つに1つだ。」
未知の事象や未来の出来事に対して確率を定義する(主観確率を定義する)ことは、それらが生起するかどうかということを保証したり確定させたりするものではない。たとえば、ギャンブルの獲得金を数学的に「期待値が100ドル」だと評価することは、実際にそのギャンブルが100ドルの獲得を保証していることには決してならない。損をするか得をするかは、賭けてみなければ決着しない。
逆を言えば、現実において、世界が「シュレーディンガーの猫」であるか、つまり、世界が「確率論的に定義される」かどうかに関わらず、今ここにある現実はすでに一つに確定している。この世界の存在確率がどんなに低く見積もられていても、今ここに現実が存在しているということが「不確実なもの」だという根拠にはならない。
量子力学において確率論的に記述される不確定性ブラックボックスの中の様子は、その箱を開いてみたときに初めて「ただ一つの現実」として目の前に現れる。「猫が死んでいると同時に生きている」というジレンマは、「箱を開ける」という行為がもたらすカタストロフィの作用によって「一意の現実」に収束する。
要するに、可能性について「語ること」は現実世界を確定させない。ルーレットが回っている間は、あるいは選択肢を並べている間は「未だ世界は来ない」。可能性というルーレットを止める、与えられたカードから一枚選択するという行為によってしか現実は確定しえないのだ。
確率論的な世界の記述は紛れもなく非線形であり、その不連続な様相が予測不可能性をもたらす。そういった複雑系のなかでは、「ある一点の分岐点」を境に事態の結果が大きく異なってくる。局所的には一見単調に見える世界から、その分岐点を越えて不連続な可能世界のある一方に収束することを「カタストロフィ」と呼ぶ。
おそらく、そういったカタストロフィによって現実世界を一意に定める、いわば「現実を選択する」という行為を「意志」と呼ぶのだろう。その行為主体が人間であるとき、その自らの行為によってその人生が「一意に(uniquely)」生成されていくのである。僕らはそういった「自己決定」によって目の前の「ただ一つの現実」を与えている。
目の前の可能性という不連続な未来に飛び込まなければ、単調さの中に潜む劇的な変化を見過ごしてしまうのである。それが幸であれ、不幸であれ。
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