Constructionの最近のブログ記事
ちょいと仕事で、オープンソースのCMSをいろいろと漁りながら、学会事務局運営のための参加&発表申込システムの構築をやっているんですが、まさにジャストフィットなOSSを見つけてしまいました。
Open Conference Systems | Public Knowledge Project
いわゆる「学術大会」、国際的なイベントのときはたいていカンファレンス(会議)という呼称がなされるんですが、そのための参加登録・演題登録・参加費支払といったシステムを用意する必要があるのです。まあ、学会といってもピンからキリまであって、お金のある学会の事務局はバーンと大枚叩いて0からシステム構築しちゃうんですが、小さいとこはそうはいかない。ということで、オープンソースのCMSで、たとえばXOOPSとかのメンバー管理用プラグインをうまく代替して、とか考えてたんですが、なんだあるじゃん、学会用のCMSツール。やっぱ日本語サイトばっかみてたらダメだね。
やっぱり日本でもいくつか企業がそういったシステムを提供してるんですが、まだたいていはシステムの提供自体がひとつのビジネスモデルになってたり。あるいは有名どころだとUMINっていう東大の医歯薬系の演題投稿システムがあったりするんですが、小規模の学会にとってはいろいろと不都合もあって、どこかの精神科の先生がこんなのつくっちゃったりと、学会の裏側のサービスは日本はまだ発展途上な感じです。(てかこの先生すげえ。)
まだ日本語化されてないのが残念だけど、とりあえず明日仮サーバにアップして弄ってみます。
あと、同じPKPのやつで、このオンライン査読システムが気になるのでコレもテスト。
Open Conference Systems | Public Knowledge Project
こういうテストと並行で、会社のオフィシャルのコンテンツを有償ライセンスのMovableTypeに移行しつつ、書籍販売ページをEC CUBEで構築、みたいなことをやっています。まあ大変。
ただ、オープンソースって、すごくいい。
とかいいながら、自分の学会発表用の原稿投稿の〆切が近いという罠。
プロダクトデザインにおける「サイズ」というパラメータは、とくにUIにおいてユーザエクスペリエンスというものに強く影響を与えるのです。そうすると、開発者のアイデアが溢れ出す。
Alice for the iPod
via アリスが電子書籍の未来を感じさせてくれる「Alice for the iPad」 | iPadWalker.NET
iPhoneがただ「大きくなっただけ」で、ユーザの経験の質と、そこへ向けた開発者のアイデアのかたちが、こんなにも様変わりするということ。本当に様変わりしたかどうかという根拠は、iPad後の「iPad向けアプリ」が続々とリリースされ、それが「実は技術的にはiPhoneでもできた」という事実にある。そうしたアプリの登場がなぜiPadの発表を待たなければならなかったかというと、iPhoneのインターフェイスの「サイズ」が重大な「制約」になっているからだ。
うーん。
中原中也賞を受賞した若い才能の感性が、それほど自分の感覚と遠くない感じが、共感とともに嫉妬を生むのです。
asahi.com(朝日新聞社):自分で世界名づける感覚 18歳の詩人、文月悠光さん - 文化トピックス - 文化
誰もが実は、それぞれのやり方で、世界を定義している。
「定義」とは、世界と自分をまさに「ことば」で繋ぐという行為だから、どういう言葉を使うか、という選択そのものがその人の感受性を反映している。
ところが、たいていは「社会性」という強迫観念が、「常識的な」=ありきたりな選択肢を選ばせる。
そのとき、「新しい定義」=「新しい言葉の組み合わせ」を生み出すユニークネス(個性)というものは、一方で妄想観念でありながら、実のところ、「常識に縛られた世界」を逸脱することによって「世界の拡張」へと誘う「創造力」であったりする。
それは、科学者も起業家も、哲学者も芸術家も、同じで、誰もが知るように、その逸脱を孕んでいる。
〈産声を生む/ただそれだけのために/私は私を孕(はら)まなくてはならないのだ。〉
創造が、天命を受けて自然と発生するわけではない。
自身の思考を、再解釈し、再構築し、十分に成熟した世界が「ことば」という肉を持って生まれてくる。
だから、創造は、一度、「孕まれ」なければならない。
だからこそ、ポエトリーは、日常会話で大量に"生産され消費される「挨拶」"と乖離している。
そういうところで、いまこの足許に立ち戻ってきたとき、大量に孕みながら生み出せないでいる諸々のアイデアを、まさしく生み出さなければならないと感じながら、成熟具合を見測りかねている今日この頃です。
認知行動療法関連のなんかの本で、「コンピューターはうつ病に罹らない」みたいなことが書いてあった。たしか、抑うつにおける「身体性」を議論してる文章だったと思う。(認知行動療法の初期の理論で、うつなどの気分障害を「認知(≒思考プロセス)の障害」とみなしていたことへの反証。)アフォーダンス然り、心理学における「身体性」の問題は近年のトピックだったりする。心身一元論だが物理還元主義ではなく、構造(脳、身体)×機能(行動、意識)のインタラクティブとして。
ちょうどそういうところで、今月のNewtonに「うつ様の行動を示すロボット」が登場した。
報酬(電源供給)による強化学習プログラムを搭載した「ネズミ型ロボット」は、報酬の獲得(正の強化)とバッテリー消費(負の強化)のバランスを判断しながら行動(供給源への移動)を学習する。2台のロボットが用意され、「将来予測」のパラメータ(どのくらい先まで行動の結果を評価するか)だけが違う。
既存のいかなる座標系によっても定位できない存在論的特異性、あるいはそれを含みつつ立ち現れる独自のヴァージョン(version)としての世界が、かえって認識論的優位性というもの自体を棄却しながらすべてを徹底的に相対化してしまうけれども、それにもかかわらず何らかの座標系によって服属的に定位されることでしか異なるヴァージョン(記号システム)に内存在できないから、誰もがコモンセンスに服従しながらあるいは服従しているフリをすることによって、世界(Uni-verse)という詞(verse)を共有している。
つまりは、いろんな人と連絡を取り合わなければならない。
(世界は文字通りことばによって構成されていく。)
鞄の中に世界制作の方法/ネルソン・グッドマン (ちくま学芸文庫)という本を忍ばせながら、ポスト言語中心主義による構成主義の方法を思索中。(上記の文章はグッドマンの思想そのものとはだいぶ違うものです。)
