tosh!zumi: apríl 2010アーカイブ
ちょいと仕事で、オープンソースのCMSをいろいろと漁りながら、学会事務局運営のための参加&発表申込システムの構築をやっているんですが、まさにジャストフィットなOSSを見つけてしまいました。
Open Conference Systems | Public Knowledge Project
いわゆる「学術大会」、国際的なイベントのときはたいていカンファレンス(会議)という呼称がなされるんですが、そのための参加登録・演題登録・参加費支払といったシステムを用意する必要があるのです。まあ、学会といってもピンからキリまであって、お金のある学会の事務局はバーンと大枚叩いて0からシステム構築しちゃうんですが、小さいとこはそうはいかない。ということで、オープンソースのCMSで、たとえばXOOPSとかのメンバー管理用プラグインをうまく代替して、とか考えてたんですが、なんだあるじゃん、学会用のCMSツール。やっぱ日本語サイトばっかみてたらダメだね。
やっぱり日本でもいくつか企業がそういったシステムを提供してるんですが、まだたいていはシステムの提供自体がひとつのビジネスモデルになってたり。あるいは有名どころだとUMINっていう東大の医歯薬系の演題投稿システムがあったりするんですが、小規模の学会にとってはいろいろと不都合もあって、どこかの精神科の先生がこんなのつくっちゃったりと、学会の裏側のサービスは日本はまだ発展途上な感じです。(てかこの先生すげえ。)
まだ日本語化されてないのが残念だけど、とりあえず明日仮サーバにアップして弄ってみます。
あと、同じPKPのやつで、このオンライン査読システムが気になるのでコレもテスト。
Open Conference Systems | Public Knowledge Project
こういうテストと並行で、会社のオフィシャルのコンテンツを有償ライセンスのMovableTypeに移行しつつ、書籍販売ページをEC CUBEで構築、みたいなことをやっています。まあ大変。
ただ、オープンソースって、すごくいい。
とかいいながら、自分の学会発表用の原稿投稿の〆切が近いという罠。
iPhoneとiPadを大きさだけで比較する見方もありますが、逆にこのぐらい小さいのはどうなの?w
iPad shuffle
「iPadは大きい」ということに対しての秀逸なパロディ。
ジョブズの逆をいく甲高い声と体型がポイント。(ムカつくw)
いつものことながら、こうもパロディのネタになる企業っていろんな意味でスゴイ。
sonyとかのもいくらか散見するけど、CMのパロディみたいな間接的なものだったり。
プロダクトデザインにおける「サイズ」というパラメータは、とくにUIにおいてユーザエクスペリエンスというものに強く影響を与えるのです。そうすると、開発者のアイデアが溢れ出す。
Alice for the iPod
via アリスが電子書籍の未来を感じさせてくれる「Alice for the iPad」 | iPadWalker.NET
iPhoneがただ「大きくなっただけ」で、ユーザの経験の質と、そこへ向けた開発者のアイデアのかたちが、こんなにも様変わりするということ。本当に様変わりしたかどうかという根拠は、iPad後の「iPad向けアプリ」が続々とリリースされ、それが「実は技術的にはiPhoneでもできた」という事実にある。そうしたアプリの登場がなぜiPadの発表を待たなければならなかったかというと、iPhoneのインターフェイスの「サイズ」が重大な「制約」になっているからだ。
YouTubeで発見⇒速攻スコア探してDL(via Game Music Themes)
Mario Air Platform Theme on Piano
練習しなくちゃ。
そろそろ、思いっきり生ピアノが弾きたい。
うーん。
中原中也賞を受賞した若い才能の感性が、それほど自分の感覚と遠くない感じが、共感とともに嫉妬を生むのです。
asahi.com(朝日新聞社):自分で世界名づける感覚 18歳の詩人、文月悠光さん - 文化トピックス - 文化
誰もが実は、それぞれのやり方で、世界を定義している。
「定義」とは、世界と自分をまさに「ことば」で繋ぐという行為だから、どういう言葉を使うか、という選択そのものがその人の感受性を反映している。
ところが、たいていは「社会性」という強迫観念が、「常識的な」=ありきたりな選択肢を選ばせる。
そのとき、「新しい定義」=「新しい言葉の組み合わせ」を生み出すユニークネス(個性)というものは、一方で妄想観念でありながら、実のところ、「常識に縛られた世界」を逸脱することによって「世界の拡張」へと誘う「創造力」であったりする。
それは、科学者も起業家も、哲学者も芸術家も、同じで、誰もが知るように、その逸脱を孕んでいる。
〈産声を生む/ただそれだけのために/私は私を孕(はら)まなくてはならないのだ。〉
創造が、天命を受けて自然と発生するわけではない。
自身の思考を、再解釈し、再構築し、十分に成熟した世界が「ことば」という肉を持って生まれてくる。
だから、創造は、一度、「孕まれ」なければならない。
だからこそ、ポエトリーは、日常会話で大量に"生産され消費される「挨拶」"と乖離している。
そういうところで、いまこの足許に立ち戻ってきたとき、大量に孕みながら生み出せないでいる諸々のアイデアを、まさしく生み出さなければならないと感じながら、成熟具合を見測りかねている今日この頃です。
